私がブログにとりあげる(法律書評以外の)ネタは、「法律の条文や法律実務書に答えが書かれていない、世の中に起こりはじめている新たな法的問題を、どう分解して考えるべきか」という視点で取り上げるようにしています。たとえば、ちょっと前のネタではUstreamの音楽配信自炊代行などの著作権周辺問題、最近のネタではパーソナルデータなどのプライバシー関連問題などがそう。なぜって、瑕疵担保責任とはなにかとか、典型契約の条文の知識とかを私が解説したところで、偉い先生方がすでに書いたものを写したような内容がせいぜいになりますし、その深みと比較されたら、太刀打ちできませんしね・・・。

しかし、これはブログだけでなく仕事上もそうで、数年前と比較しても、条文や実務書を見たら答えが書いてあった、なんていうことは少なくなって来ていますし、どこを調べても書いてないからわかりません、では仕事にならなくなっています。今いるのがエンタメという少し特殊な業界だから変化が激しいのかなあなどと漠然と思っていたものの、そういった著作権やITといった法分野に限らず、最近では、仕事で携わる会社法や税法などの分野でも、条文や実務書等には答えのない法的論点との出会いが増えています。


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その度に、本当にこれは新しいことなのか?実は先例がどこかにあるのではないか?そこから疑ってかかるわけですが、この「条文ではなく先例から探る」仕事の仕方ってどうもコモン・ロー的すぎるし、曲がりなりにもシビル・ローの国の法務パーソンとしてそれで本当にいいのだろうか、と思っていたところに、こんな沁みるコラムを見つけました。


海の向こうのコモン・ロー:「法律」がない国々(アンダーソン・毛利・友常法律事務所 企業法務の窓辺)
「コモン・ロー」や「シビル・ロー」といった言葉自体多義的なため、本来はきちんとした定義をする必要がある。しかしながら、厳密さには目を瞑り、非常に大雑把に言うと、コモン・ローとは先例主義であって、制定法ではなく判例を中心とする法体系であり、他方でシビル・ローとは制定法(法典)を中心とする法体系である。
アメリカにおいても、会社法、証券法、倒産法など法律(条文)がある分野も存在する。こうした分野では、一見、コモン・ローとシビル・ローとではそれほど変わらないようにも思える。しかし、そうした分野でも条文の意味、位置づけは日本とは相当に異なる。
アメリカでは、日本の弁護士が行うようなコンメンタールや立法担当者の解説の参照という作業はあまり見たことがない。そもそもコンメンタールといった類の体系的な書籍や、立法担当者の解説といった類の文献自体があまり存在しない。余談だが、アメリカの法律事務所の弁護士の部屋を見てまず驚いたのは、その本棚に置かれた本の少なさである。無論、書籍のオンライン化が進んでいるという事情もあろうが、オンラインで検索できる判例がより重要ということもできるのだろう。そうした作業の結果としての法律的な分析は、どことなく「ファジー」であるという印象が否めない。確立したルールを前提にそのルールの適用を考えるのではなく、ルール自体が特定の事実を前提にしたものであり、事実が変われば適用されるルールが変わり得るからである。さらには、裁判所の判決によりルールが変わったり、新しいルールが確立したりするため、制定法と比べるとルール自体が「ファジー」ともいえる。
経験に裏打ちされた「勘所」がなければ、判例の射程距離の分析どころか、適切な判例・ルールを探すことさえ覚束無い。そして、常に新しい判例に気を配らなければならない。こうして、アメリカン・ロイヤーは日々勉強し、凌ぎを削っている。しかし、その姿勢は、私の知るジャパニーズ・ロイヤーと同じだった。つまるところ、「弁護士の姿勢はコモン・ローであろうとシビル・ローであろうと変わりはない」というのが回答なのかもしれない。


経験に裏打ちされた勘所が共通して重要、法体系とは関係ないとのメッセージに安堵しつつ、しかし、私に不足しているのは、先例に当たる量とその最新の先例を調査する手段の少なさだなと再認識。

判例百選などで最高裁判例だけを聞きかじって終わりではなく、判例データベースを個人のツールとして備え持ち、それを武器として使いこなせる能力が当然に必要になってくるでしょう。さらには、コモン・ローの国での商売も増える一方であり、当該国の先例・判例が調べられるデータベースと、勘所を働かせるための前提知識としての学問としてのコモン・ロー知識の必要性は、(それこそ先例主義の国で先例を調べないのは本末転倒なわけで)ひしひしと実感しています。

後者については、いまさらながら自分自身がキャッチアップに努力しつつも、やはり組織としてはコモン・ローの国でLLM、あわよくばJDとしてしっかり学んだ方であることを求人要件とした採用も、積極的に考えなければならなくなるでしょう。誰かいい方がいらっしゃれば是非ご紹介くださいませ。
 

2014.1.11 追記:

『日々、リーガルプラクティス』のCeongsuさんが、応答エントリ(などというのは大変おこがましいのですが)を書いて下さっています。きちんと勉強されている方の深みのあるコメントに、自分の浅学非才を恥じるばかりです。

証拠法と民事訴訟法の勉強にこだわる理由〜日米間の法制度の最大の違い
米国の弁護士・企業内のインハウスロイヤー(米国では各州の弁護士倫理規定上、企業内であろうと、法律業務は有資格者しかしてはいけないことになっています。例として、Model Rules of Professional Conduct §5.3参照。)が常に気を向けているのは、やはりこの陪審員制度及び陪審員による心証形成に関してであるかと思います。当然、日本でも裁判官の心証形成を考えて弁護士の方は日々対応されているかと思いますが、成文法の国で、かつ裁判所の統一性のレベルが高い日本では、その心証による結果の相違の振れ幅は、米国の陪審員のそれと比べると、やはりだいぶ狭いと考えています。

そのため、米国のLitigation Lawyerたちは、適用されるCase Lawの調査は同じチームの弁護士やアソシエイト又はパラリーガルに任せ、日々黙々と陪審員の心証形成をいかによくして、またいかに相手方にとって自社がその観点から有利な立場にいるように見えるか、ということを意識しながら、どう好ましい和解案を獲得するかなどを考えている方が少なくないと思います。逆に陪審員が絡まない事例(独禁法関連等)となる場合には、過去の行政の判断過程や裁判所等の判断内容及びその理由の分析・検証などがより深くなされると思いますので、「何を深く分析・検証・検討する必要があるか」という判断をする場面でも、陪審員裁判制度が実務に大きな影響を与えているはずだと考えています。
そういった観点からすると、弁護士や企業法務が行う努力の大枠は日米間で変わらないとしても、米国法に関連して本当に微妙な事案で物事を判断するには、陪審員裁判に特有な証拠法とか訴訟手続法を理解していないと、先行的な対応はできないのではないか、という気がしております(だからデポジションの話題も過去に取り上げてみたのですが。。。あ、そういえば、当該シリーズの最後の投稿を忘れていました。。。近日投稿します。)。

補足:証拠法と民事訴訟法の勉強にこだわる理由〜日米間の法制度の最大の違い
判例を学ぶというのは、成文法の国である日本では法律の条文がどう適用されるか、つまりRule以上にApplication(Ruleがどう適用されるか)を学ぶ、ということだと思いますが、コモンローの国でも、Ruleが判例で形成されることが多いとは言え、やはり判例を読む上で重要なのはApplicationを学ぶことだと思います。

そういった意味で、判例の重要性は日米間に大枠の違いはないものの、そのApplicationが陪審員によって行われているのが米国である、そこに大きな違いがある、と言えば、先ほどの投稿はもっと分かりやすかったかもしれない

日本でインハウスローヤーとして働く弁護士のみなさんも、やはり訴訟手続法部分の実務経験が強みであり、それがあるからこそ目には見えにくいところで無資格者の仕事とはアウトプットに差が出ると感じていらっしゃる(ただし日本の企業法務においては訴訟が少ないので実際に活用できる機会が極端に少ないという悩みも聞きますが)のと、Ceongsuさんが仰っていることは重なりますね。

※なお、1点だけ私のエントリの主旨を補足させていただきますと、「日本の企業法務も、米国のように判例をもっと重視して、条文の適用など無視して良い」とまで言いたいわけではありません。仕事の仕方として、何か問題が発生した時にその手がかりを条文やその解釈を書籍で探すのではなく、世の中で実際に発生した先例を探すアプローチをとるということは、適用できる条文がほとんどない新問題・新分野においては、必ずしも悪ではないのではないか、という主旨でした。まあ、いずれにせよ浅いエントリです。
 
ありがとうございました。