企業法務マンサバイバル

企業法務を中心とした法律に関する本・トピックのご紹介を通して、サバイバルな時代を生きるすべてのビジネスパーソンに貢献するブログ。

クリエイティブ・コモンズ

【本】フリーカルチャーをつくるためのガイドブック ― 著作権はやがて“コミュニケーション受益権”へ

 
この本の紹介の前に、今日はまず自分の体験談からさせていただこうと思います。


フリーカルチャーをつくるためのガイドブック  クリエイティブ・コモンズによる創造の循環フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環
著者:ドミニク・チェン
販売元:フィルムアート社
(2012-05-25)
販売元:Amazon.co.jp




「音楽はパーツ」論


私は高校時代から、今もなお懲りずにバンドをやっています。グラインドというノイズあふれるジャンルの音楽でして、ほぼすべてオリジナル曲でこれまでに自主制作で2枚のアルバムをリリース、今月にも久しぶりに3枚目をリリースして、秋にはライブもやろうかと計画をしているところです。

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こういう話をすると、「なんでプロにならなかったの?」と聞かれます(実際skype英会話でフィリピン人講師に自己紹介するたびに毎日聞かれてます…)。もちろん聞いているほうもそんなに真剣に尋ねていらっしゃるわけではないでしょう(笑)が、当時は高校生〜大学生なりに音楽の道で飯を食うことを考えていたこともありました。しかし、その時にはすでに、これからはCDを作ってそれを売って飯を食うというのは成立しなくなるということを直感していました。

決定的だったのは、大学時代にビートルズのコピー以外禁止という超ストイックなビートルズバンドサークルに入って、160曲以上をひたすらコピーしたこと。ビートルズを聴くだけでなくそこまで演りつくすと、すべてのボップス・ロックが「ビートルズのあの曲のこの部分とこの部分の組み合わせ」という風に聞こえてくる病気にかかります。

そんな体験を通して私が当時思ったこと。

「バンド音楽というものは、楽器・音階・リズムという世界共通の仕組み・ルールで構成されている以上、ある一定の組み合わせのバリエーションでしかない。しかもその美味しいところはビートルズがすべてやり尽くしてしまっている。後に生まれたものはすべてそのコピーかアレンジほどの価値しかない。」

ちょっと暴論かもしれませんが(笑)、いずれにせよ、人のコピーやアレンジみたいに聞こえてしまうような“作品もどき”でお金を取れる時代は早晩終わるな、と確信していました。

そのうち、バンドメンバーがみな社会人になって忙しくなると、バンドは一人でできないので、今度は一人でできる音楽活動、DJに手を出します。DJがやることといえば、右側のターンテーブルと左側のターンテーブルで違う曲をかけてそれをヘッドホンで聞きリズムをあわせながら、ベストなタイミングで外のスピーカーに出力する音を切れ目なくつなぎ、別の曲のように仕立てながら、オーディエンスを楽しませること。

せっかく作曲者が曲のはじまりから終わりまでで一つの完成された作品を作っているのに、そのせっかくの作品を分解・解体し、“パーツ”として使うわけです。作曲者からするとなんたる失礼な行為という感じです。実際にDJやる前は、DJなんて楽器が弾けないやつが人の曲を使って負け惜しみでやっているお遊び、そうとしか思えませんでした。

しかし実際にやってみると、楽器・音階・リズムという“バーツ”から組み立てて音楽を作るのではなく、すでにある曲から“パーツ”を取り出し組み合わせてあたらしい音楽をつくる感覚が新鮮で、しかも楽器を引くよりも難しく、かつ音階やリズムをパクって別の曲のように装うよりもストレートに原曲を(パーツとして)使う点でよっぽど正しいことのように感じたのです。そして、この体験を通してこう思いました。

「自分の作品の一部がこんな風にパーツとして扱われだしたとき、そのパーツに払われるお金はさらに微々たるものになるだろう。そのとき、自分がその作品・パーツの制作者だったら、何に報いを求めるだろうか。それは著作権にもとづく対価請求権とは違うものなのではないか。」

丁度この頃、iPod/iTunesブームが到来し、アルバムというアーティストにとっての作品が解体されて1曲150円のパーツ単位で販売され、著作物のパーツ化・低価格化がさらに進むことは間違いのないものとなっていきます。そのあたりの著作権とDJのようなパーツ的創作活動との間のギャップに関する思いは、クリエイティブ・コモンズの提唱者の一人でもあるローレンス・レッシグが書いた『REMIX』の書評エントリにも書いています。


ゆっくりと、著作権を“コミュニケーション受益権”に変えていく


さて、この本の話題に戻りましょう。


フリーカルチャーをつくるためのガイドブック  クリエイティブ・コモンズによる創造の循環フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環
著者:ドミニク・チェン
販売元:フィルムアート社
(2012-05-25)
販売元:Amazon.co.jp



私がこの本を手にとった1つの理由は、法務パーソンにもかかわらず、クリエイティブ・コモンズの仕組みや、あの「CC:BY-NC」みたいなライセンス表記ルールがなかなか覚えられず、苦手意識があったから。思想としては共感していても、非商用のライセンスを規定する話なので仕事上の緊急性がないこともあり、後回しにしていました。この点については、他のどの本よりも柔らかく噛み砕いて説明してあったので、もし同じような苦手意識をもっている法務パーソンがいらっしゃれば、満足いただけるクオリティだと思います。

※上記記述について @taaaaaaaask さんよりtwでご指摘いただきましたので修正しました。わざわざ有り難うございました。

もう1つの理由が、先ほどのこの問い

「自分の作品の一部がこんな風にパーツとして扱われだしたとき、そのパーツに払われるお金はさらに微々たるものになるだろう。そのとき、自分がその作品・パーツの制作者だったら、何に報いを求めるだろうか。それは著作権にもとづく対価請求権とは違うものなのではないか。」

これに対する答えとして、私は代わりに著作者人格権をもっと強化することなのではないかという自論をぼんやりと持っていたのですが、クリエイティブ・コモンズはこの点をどう考えているのか。つまるところ、クリエイティブ・コモンズは何をゴールと設定しているのか?という点です。

これに対する答えは明快でした。

ある人は、別の作者の作品を自分の創作に組み込んで、まったく別の作品に仕上げることによってリスペクトを示すことができるでしょう。しかしできあがった新しい作品が、取り込んだ著作を素材として活かしきれているかについては、それを鑑賞する人によって印象が異なるでしょう。
これはひとえに他者の創造性を継承して新しい作品を生み出すという行為そのものがコミュニケーションとしてとらえられることを意味しています。そこには濃淡があり、表情があります。それがゆえに失敗もあり、成功もあります。絶対的な尺度で規定することはできず、受け手に応じて相対的に価値が変化するのです。
本や論文を書く際には必ず参考にした文献の情報を記載するように、ミュージシャンがカバーソングやリミックスを作る場合には対象となる曲を明示します。このことによって引用されたり参照されたりした原作者は自分の表現行為がどのような影響を与えたのかを知ることができます。それは原作者自身の趣向性や価値基準に沿うようなポジティブなものである場合もあれば、時としては原作者が好まないネガティブなものであったり、またはまったく予想もしなかった形に作り変えられる場合もあるでしょう。
しかし、コミュニケーションに常に誤解や失敗があるように、創造行為が自分が期待した反応を引き起こさなかったり批判を浴びたとしても、その事実は自分の次の創造行為をよりよくする材料になります。もちろん感情的であったり、ただ否定的なコメントはリスペクトにもとづいたフィードバックだとはいえませんが、ネガティブかつ建設的なフィードバックを返すことも作者の学習をうながすという意味で、有益な行為だと考えることができます。

創作の見返りはリスペクトだけでなく、学習までをも含んだものであるべきである。そのために必要なコミュニケーションを生む仕掛けがクリエイティブ・コモンズ・ライセンスだ、著者はそう述べています。

そしてもう一点、法務パーソンの関心事である「その時に著作権法はどうあるべきか?」について。

著作権の旧さや弊害を指摘し、それを乗り越える対症療法的な活動だけではなく、現代の技術や社会状況と照らし合わせながら、著作権がどうあるべきかという逓減や実験も同様に必要とされるでしょう。
筆者はクリエイティブ・コモンズは長期的な時間を要すると同時に、過渡期な運動であるととらえています。クリエイティブ・コモンズの最終的な目的は社会の中で透明な存在となり、クリエイティブ・コモンズという固有名について語る必要性がなくなったときに完遂されると考えています。

クリエイティブ・コモンズの活動家は、比較的おとなしい人が多いなあと思っていたのですが、著作権制度を性急に壊して新しい制度を無理矢理押し付けるのではなく、クリエイターとユーザーとの間にコミュニケーションを促すことで相互にメリットをもたらし、いずれはクリエイティブ・コモンズの概念すらなくすことがクリエイティブ・コモンズ・ライセンス制度の目指しているところなのだ(※)と聞いて、納得と共感を覚えました。

とはいえ、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの仕組みは法務パーソンからみてもちょっと複雑で、一般への浸透にはまだまだ時間がかかりそうなのも事実。著作権制度だって、明日あさって急になくせるようなものではない。それらを自覚した上で、あせらずにゆっくりと、芸術・創作のクリエイターとユーザーとの間にリスペクトとコミュニケーションを創発し、それによってクリエイターとユーザーの両者がさらに高みに登る世界を目指している、そんなクリエイティブ・コモンズを私も支持していきたいと思いました。
 

※この引用部については、著者のドミニク・チェンさんより、あくまで個人的見解でありCCコミュニティ全体の共通理解ではないとのコメントをツイッターでいただきましたので、念の為ここに追記させていただきます。コメントありがとうございました。
 

みんなそんなにフェアユース規定導入を望むのか、そうか、そこまで言うなら著作権法だけじゃなく民法からまるごとコモンローに切り替えてしまおうか


クリエイティブ・コモンズ・ジャパンによる「日本版フェアユースに関するアンケート」の集計結果を拝見しました。

クリエイターや一般ユーザーは日本版フェアユース導入に積極的(クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)

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「クリエイター」と「一般ユーザー」以外に利害関係者っていましたっけ?全員賛成ってことですか?というタイトルへの突っ込みはさておき(笑)、赤色の個別制限規定派のボリュームに対して、青色の一般制限規定すなわちフェアユース規定導入派が3倍にもなっています。

基本的にフェアユース規定導入を支持している団体のアンケート結果なので、大幅に割り引いて見たとしても、ここまで多くの方が「このインターネットの時代に法律でガチガチに禁止・規制しても法律が時代に追いつかないから、規定は曖昧な一般制限にしておいて、柔軟な運用で解決するっていうことでいいんじゃないか」と思っているんですね。


フェアユース推進派は、内田先生に法改正を進言しては?

アメリカで導入されているフェアユース規定は、それまでの度重なる裁判によりコモンロー(判例法)が認めてきた被告側の著作権侵害の抗弁の要素を抽出し、1976年に米国著作権法107条に一般制限規定として“後付け”で明文化された、という成り立ちがあります。
コモンロー(判例法)を前提としている法体系だからこそ、一般制限規定という曖昧な方式でも、権利者にとっての法的安定性や予測可能性が保障されているわけです。

一方この日本では、大陸法の成文主義が採用されていて、最高裁判例以外は先例としての価値を持たないことを前提としています。従い、最高裁判例が数十件分ぐらい出ないうちは「争ってみないと何がフェアなのか分からない」という状態となりかねません。
3年で1件ぐらいのペースで先例としての価値を持つ最高裁判例が出たとして、法的安定性・予測可能性が確認できるほどの最高裁判例の数が得られるのは、一体いつになることやら。

その意味で、著作権法の一部だけがコモンロー的発想をとるというのはやっぱりおかしいのではないかと思いますし、ちょうど今まさに100年に一度の民法(債権法)大改正の議論もしているわけですから、どうせなら思い切って一般法である民法に加えてその特別法である著作権法もまるごとコモンローに切り替えるか否かぐらいの大局的議論に持ち込んで欲しいと思っておりますけれど。

内田先生、いかがでしょうか?


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