※彼の命日にバックデートして書いています。思い出しながら、追記することがあるかもしれません。
幼馴染の親友であり、バンドメンバーとして戦友でもある友人が亡くなりました。このブログの本題とは少しズレてしまうようで迷いましたが、今の私を語るには彼の存在は欠かせないので、ここに書かせていただきます。
幼馴染といっても付き合いの長さは半端ではありません。彼とは小・中・高・大と、すべて一緒の学校。といっても示し合わせたわけでなく、本当にたまたまなんですが。そのたまたまってところも、この縁の深さを感じます。
彼は小学校低学年のころから天才肌で子供なのにどこか飄々としていて、勉強にも時間をかけずにテストの点がとれてしまうが必要以上のガリ勉は性に合わないからしない、水泳やサッカーが好きだったりするけれど体育会系の汗臭さは嫌い、スラっとしてモテるタイプだが女子の前では無口でモテようと必死になったりはしない、スマートなヤツ、という感じでした。子供心に、あんな風にスマートにふるまいたいとあこがれていた部分があったと記憶しています。私は、意味のないこと・無駄なことはしないで省エネで生きるタイプですが、そうなったのも彼が振る舞い方のモデルの一人だったからでしょう。
中学のときはクラスが一回もかぶらなかったのでやや疎遠になったものの、高校に入ってすぐその彼とバンドを組みます。当時邦楽しか聞かなかった私に洋楽文化の素晴らしさを教えてくれたのも、今思い返せば彼でした。以降私自身はいろんなメンバーといろんなバンドを組みましたが、お馬鹿だけど自分の感情に素直になれる音楽に理解がある彼ともう一人の高校の同級生と3人で何かやりたいと思い、あらためてその3人でバンドを組みました。全員が大学に入学してからは、そのお馬鹿仲間3人でオリジナルの曲を作るようになり、人並みにライブもやり、はじめてスタジオで本格的なレコーディングもしました。そのはじめてのマニアックなオリジナルアルバム(といっても配布メディアはテープでしたが笑)を、バイト先で気になっていた社員の女性に「もしかしてこういう音楽聞いたりしますか?」と手渡したところ意気投合。その女性が今も一緒にいる私の妻です。彼がおらずバンドがなかったら、私は彼女と結婚もできなかったと思います。同時に、バンドでやりたいことはやりきり、自分が音楽で飯が食えるのか・食うべきかをシリアスに考えることもできました。下手に夢と未練だけをかかえて、社会人になってからバンドマンをめざすなんていう最悪のシナリオにならずにすんだのも、彼とバンドを組めたおかげです。
社会人になってからは、趣味としてバンドは数年間続きましたが、それぞれ仕事が忙しくなり、たまに遊び半分でスタジオに入ったり飲んだり・・・とだんだんと活動は停滞していきます。そして時はたち、2枚目のアルバムのレコーディングからほぼ10年が経とうかという2011年の暮れのこと。ふと昔彼から教えてもらったバンドの映像をYoutubeでみていたところ、何故だか急にベースが欲しくなったのです(これは今思えば何かの虫の知らせだったとしか考えられません)。御茶ノ水で買ったそのベースの写真を速攻でFacebookにアップしたのをきっかけに、久しぶりにまたメンバー3人で集まることになりました。そこで彼から聞かされたのが、まだ分からないが、実は暫く会わなかったうちに癌にかかっていたこと、そして転移が発覚して余命はあまりない、という衝撃の告白でした。私達はどう受け止めていいかわからず、「まじかよ。大変だな。でも考えててもしょうがないから、なんかやろうぜ!」ぐらいの会話しか出来なかったと思います。2012年前半の週末は、彼の抗癌治療の周期にあわせて、彼の指が動く週にスタジオに入り、それ以外の週は自主練や曲作りという日々を過ごし、5月〜6月にかけてバンドとして3枚目のアルバムをレコーディングしました。半分彼のはげましのためにはじめたようなところもありましたが、そんなことも忘れて、これ以上のない自分たちだけのアルバムができたという充実感を、3人がともに味わうことが出来ました。

その後ライブの計画もあったものの、彼の治療周期や体調と日程があわず、何度か見送られ、そのまま2013年を迎えます。すると彼から「みんなで寿司でも食いに行こう」「スタジオに入ろう」と声がかかりました。今思えば、元気に会えるのも今が限界と彼は悟っていたのかもしれません。こちらもうっすらとそんな予感がしたので、せっかくだからと、昨年作成したアルバムの曲にあわせて、お馬鹿なMusic Videoも撮影しました。メンバーの家族がみんな集まって、楽しい時間を過ごしました。
4月。彼が入院先からほぼ遺書とも取れるFBメッセージが私達に送信され、メンバーで病院に集まりました。そんな末期でも彼は「モルヒネうってるから大丈夫w」と、飄々としていました。1時間ちょっと楽しく話して、じゃあね。と。その会話の中で彼が言っていたのは、重い病気になっても自分を見放さないで雇ってくれている会社への恩もあるが、やはり家に帰って家族子供とゆっくり過ごしたいと。彼は仕事も出来る人間でしたし会社も好きだったんだと思いますが、それでも、こういう状況においても傍で支えてくれる家族が一番かけがえのない存在なんだということを、私達に語りました。どちらかというと無口で口下手な彼が、あの状況下で家族への愛や恩を語るのだから、私もしっかりと肝に銘じておかなければと改めて思いました。

彼が病床からFacebookに残した投稿が、葬儀でも披露されていました。
ここに転載させてもらいます。
自分には4月に小学生になる娘がいます。
娘は自分から話をすることが苦手で、かつ非常に我慢強い子なので、小学校に入っていじめられてもきっと話してくれないだろうし、人間関係で溜め込み過ぎないか凄い心配です。
そんな娘が今日、自分のベッドに腰掛け、昨日今日あったこと、これからの小学校で準備していることなどを話してくれました。
今までこちらから聞かなければ、幼稚園の話などしてくれなかった娘が色々なことを話してくれました。
その話の最中、自分は涙を堪えることができませんでした。。。
それは昨日妻が娘にある告白をしたことを知っていたからです。
昨日妻は娘に自分の病気のことを告白しました。治る見込みはなく、1ヶ月か1年かわからないが残された時間が多くないことを。
あまり感情を出せない娘も昨日は妻の話を聞き、ひとしきり泣いた後、わかったとだけ言ったそうです。
娘は妻から後悔しないようにパパとたくさん話をするよう言われたことを素直に受け入れ、自分の病室のベッドに腰掛け、色々な話を立て続けに早口で話してくれました。
自分が涙を堪えることができない中、娘は何一つ表情を変えず一通りの話を終えると、最後に笑顔でじゃあねと言って病室を出て行きました。
今もあの笑顔を思い出すと涙が止まりません。自分の娘ながらどんだけ我慢強いんだと。きっと泣きたかったのは、娘も同じなはずなのに。
自分には時間がもうありません。病気になってから今日まで家族に残された時間何をしてあげたら良いかずっと考え悩んでいました。
が、今日娘に答えをもらった気がします。家族の中で特別なことなんてない、普段通りで良いと。
まだ知恵のない娘に妻の思いは十分伝わっていたし、自分にも十分過ぎるほど娘の気持ちは伝わった。また、妻は自分の気持ちを痛すぎるほど感じとり、子供たちや自分に接してくれています。
特別家族のために生きてきたわけではない自分にすらある、この家族という絆は、非常にありがたいものだと今更になって気付かされました。自分の今の目標は家に帰り、家族と生活することです。
皆さんもどうか家族との瞬間瞬間を大切に。
また、この話が身内に余命わずかの方がいる人やこれから直面する際の何か参考にでもなれば幸いです。
残されたご家族には大変失礼な言い方かもしれませんが、友人の一人から見る限り、これ以上ない、美しく格好良さすら感じさせる去り際でした。彼は最期までスマートでした。そのおかげもあって今は悲しくはないのですが、このブログを書いている今彼との付き合いを振り返りながら、気づかずに彼から受けていた恩のあまりの大きさに、打ちひしがれている次第です。









