今、巷にあふれるインターネットとプライバシーに関する論争を友達同士の会話調に翻訳しなおすと、およそこんなパターンになっていると思います。
A:「Facebookとかtwitterって、気を付けないとプライバシーが脅かされる感じがして怖いよね」
B:「ならやめたらいいじゃん、別にやる義務があるわけじゃないんだし」
A:「だって、イマドキ学生やるにも就職するにもソーシャルネットワークぐらいやってないとさ・・・」
B:「なら、サーチされたりバラ撒かれる覚悟で、自己責任でアップするしかないんじゃない?」
ここ日本では、つい最近まで「プライバシー権とは自己情報をどこまでもコントロールできる権利である」「自分が第三者に開示した情報であっても、望まない相手には伝達されない/知られない権利がある」などというトンデモな風潮が(そしてそれを自己情報コントロール権と名付けて大まじめに唱える学説すら)あったわけですが、さすがにこれだけソーシャル・ネットワークが普及するような世の中になって、そういった論調も聞かれなくなりました(正確に言うと、そういう憲法系学者さんの教科書はまだ沢山存在します)。それに代わって急に台頭してきた感があるのが、上の会話のBさんの発言に見られるような「プライバシーはそもそも開示した自分の責任」説です。2009年にまさに同じようなことをエリック・シュミットが言っていたのも、記憶に新しいところです。
今日ご紹介する本書『パブリック』の著者ジェフ・ジャービスは、"情報主体がプライバシーをどこまでもコントロールできる”という考え方が過去の遺物となった一方で、代わりに台頭しつつある“すべては自己責任”的な考え方は、情報をシェアすることの価値を阻害してしまうという危機感を感じ、そこに一石を投じようと筆を取ったことがわかります。
パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ著者:ジェフ・ジャービス
販売元:NHK出版
(2011-11-23)
販売元:Amazon.co.jp
そのことがよく伝わってくる一節が以下。
こうしたプライバシーの問題は、これまでも、そしてこれからも、人々がお互いにどう接するかという所に戻ってくる。僕らはそれを法律やルールやエチケットやテクノロジーに落とし込もうとする。でも、結局「プライバシー」という言葉にひとつの意味をあてはめるのは不可能ではないかと思うのだ。そのかわり僕は、プライバシーは「倫理」だと信じるようになった。僕はそこに僕なりの定義を見出した。
あなたが何かを打ち明けると、その相手がたとえ一人だったとしても、その情報はその範囲でパブリックなものになる。それがもっとパブリックになるかどうかは、あなたが打ち明けた人次第だ。スティーブが友人のボブに離婚することを打ち明ければ、その知識をどう使うか決めなければいけないのはボブになる。ボブがそれを他人に言ってもいいとスティーブが思っているかどうかを、ボブは確かめる必要がある。ボブは、なぜ自分がそれを他人に伝えるのか―うわさ話でスティーブを傷つけるためか、それともスティーブへの支援を集め、彼を助けるためか―と自分自身に問わなければならない。
反対に、パブリックにすることは、自分の情報を管理する倫理だ。もしサリーが乳癌にかかっているとしたら、彼女はその情報をシェアすることがみんなの役に立つかどうかを判断する必要がある。もしそれをシェアすれば、友人のジェーンが検査を受ける気になるだろうか?サリーの職場や地域で乳癌が急増しているようなら、彼女の新しいデータが問題の原因を突き止める助けにならないだろうか?サリーはシェアする必要はない。だがシェアしないことで、他者が影響をうけるかもしれない。その責任は彼女にある。
だから、プライバシーは誰かの情報を受け取る人の選択をつかさどる倫理だ。パブリックは情報を発信する自分自身の選択をつかさどる倫理と言える。もっと単純に言おう。
プライバシーは「知る」倫理だ。パブリックとは「シェアする」倫理だ。
ジェフ・ジャービス自身が、自己の情報を積極的に開示してメリットを受けてきた経験の持ち主であることから、「もっと積極的に、情報を出す側/受け取る側の双方が責任を果たそうという気概をもって、恐れずに情報をシェアしようぜ」と熱っぽく語るこの本。その姿勢に賛同する一方で、“倫理”というありきたりな言葉で片付けるにはいかにも勿体無い気がしてならないのは、私だけでしょうか。
本書の中で度々引用されるいくつかのプライバシーに関する専門書(ヘレン・ニッセンバウムの『PRIVACY IN CONTEXT(本ブログでは未紹介)』やダニエル・J・ソロブの『Understanding Privacy』など)の理解も、同書に影響を受けて止まない私の目には「著者はどこまで読み込んでこれを書いているのだろうか?」と首を傾げざるを得ない記述も多く見受けられましたし、レッシグの『CODE』を読んだことがある人にとっては「どこまでプライバシー侵害の危険に対してお気楽なんだこの著者は・・・」とびっくりされるぐらいの楽天的な論説が展開されています。彼自身はベンチャージャーナリズムが専門で法学が専門ではないということなので無理もありませんが、硬派なプライバシー法学論を期待すると拍子抜けするかも。

と、生意気にもやや辛口な批評を述べてしまいましたが、ニッセンバウムやソロブといったまだ一冊も邦訳されていないプライバシー研究者の著作を引き合いに出した点は、まだ彼らに馴染みのない日本のプライバシー研究者に少なからず影響を与えるでしょうし、一方通行にプライバシーを脅かすだけの「マス(メディア)」と双方向に意見や異議を述べる機会がある「パブリック」の違いに着目した上で、
僕はプライバシーをパブリックと競わせるつもりはない、なぜなら、何度も言うが、それらは相反するものではないからだ。プライバシーとパブリックは相互に作用するものだ。プライバシーを「パブリックでないこと」とは定義できないのだとするアプローチは、私の次なるプライバシー研究の着想としても大変参考になりました。総論で申し上げると、ネット上のプライバシーに興味・関心があるなら読んでおけ、ということになるでしょう(そうじゃなきゃこうしてブログで紹介なんかしませんし笑)。
ソーシャル・ネットワークブームも一段落した感のある今、一度本書を通じてご自分のネット上でのプライバシーのあり方について整理してみてはいかがでしょうか。









