プライバシーには、古典的プライバシー権と積極的プライバシー権とがある。古典的プライバシー権とは、個人の私生活に関する事柄(私事)やそれが他から隠されており干渉されない状態を要求する権利をいう。また、現代の積極的プライバシー権とは、自己の情報を統制することができる権利をいう。
Wikipediaの「プライバシー」の項にもそんなことが書かれているように、プライバシー権=自己情報コントロール権という考え方が定説化しつつあるこの頃。
でもこれからは、そんなことを言っているときっと時代遅れになるよということを、今日は少し力説してみたいと思います。
データ・ダブル=情報化した分身は一人歩きする
私が、プライバシー権はもはや自己情報コントロール権ではなくなったのではないか、というエントリをシリーズで3連投したのが、2008年の10月。
▼【本】プライバシー権・肖像権の法律実務?プライバシー権とは“自己情報コントロール権”なのか?(1)
▼【本】情報化時代のプライバシー研究?プライバシー権とは“自己情報コントロール権”なのか?(2)
▼【本】個人データ保護?プライバシー権とは“自己情報コントロール権”なのか?(3)
その思いを確信に変えてくれたのが、今年の1月に刊行されたこの『ポスト・プライバシー
もともと個人のアイデンティティとは、それをもつ個人自身のものとされてきた。ところが電子リストは、個人の外部に、別のアイデンティティをつくりだす。いわば個人にとって分身のようなものである。データが生み出す分身(ダブル)であることから、しばしばこれは、データ・ダブルと呼ばれる。
そもそも個人のアイデンティティは、他人と直接かかわり、相互行為する中で形成されるものだった。そして個人は、それに関して完全とはいわないまでも、ある程度は把握出来ていた。個々人は自らのアイデンティティがつくられる現場の多くに立ち会っていたからだ。しかしデータ・ダブルは、当の個人の意識の直接性の外側でつくられていくのである。
自分のカラダが居ない所で「データ・ダブル」が自分の分身として働き、「データ・ダブル」だけを見た人が、勝手に「あの人はこんな人だ」という個人イメージを形成していく。
そこにおいては、自己情報をコントロールする権利など、及ぶべくもない・・・。
この「社会の中で一人歩きする個人イメージ(データ・ダブル)は、自分が情報(データ)を他人に差し出した以上、もはやコントロールできるものではない」という感覚は、人材サービスに携わっている私は、まさに肌で感じているところです。
求職者というひとりの人間が、キャリアコンサルタントという「個人の意識の直接性の外側」にいる存在によって「データ・ダブル」という分身に仕立てられ、キャリアコンサルタントの質・相性・面談で求職者から何が語られるかによって、求職者の分身たる「データ・ダブル」も変化し、その結果、求人企業に推薦した後の採用可否が左右されるという現実を、目の当たりにしているのですから。
ネットに情報を差し出すことは権利の放棄に等しい
さらに、最近のクラウド・コンピューティングにおけるプライバシーに関して、先日、情報ネットワーク法学会研究大会に参加されていた町村弁護士が、twitter上でこんな発言をされていました。
matimura: 夏井先生のクラウドコンピューティング論は、要するに、クラウド運営者側のルート権限とユーザのルート権限との抵触、というかユーザがコントロール権限を握ることは原理的にできないという点。
町村先生の答えがこちら。
専門家の間でも、ネット社会で個人情報自己コントロール権を主張することが古い考え方になりつつあることをはっきりと目撃した、印象的な瞬間でした。
分身を自ら生産し、プロモートする継続的な努力を
プライバシーというものが、自分自身ではコントロールできないものになりつつあるというならば、いったい我々は増大する社会の脅威の中でどのように生きるべきなのか。
私は、つい先日のエントリを、こんなもったいぶった言い方で結んでいましたが、
▼プライバシーの絶対領域なんて幻想だとわかったら、なんだか逆に気が楽になってきた
この“アイデンティティ形成の場の変化にあわせてプライバシーの場も変化させていく”ということが、これからの新しいプライバシーの考え方であるという点については、またの機会に。
この問いに対する私なりの答えはこうです。:
社会の脅威であると同時に、新しいアイデンティティ形成の場でもあるネット・SNSという場において、他人にデータ・ダブルを勝手に作らせるのではなく、自分自身から積極的に・先んじてデータ・ダブルを「生産」し「上書き」し続けていくのが、新しいプライバシーのあり方なのではないか。
少なくとも私自身は、そんなことを考えながら、このblogやtwitterと向き合っています。










