BtoCな事業に携わると、プライバシーの問題に否が応でもかかわることになり、ここ数ヶ月はプライバシー関連の研究ばかりしている私。

個人情報保護法と自己情報コントロール権への違和感については一区切りつけられたと思う一方、みんなが騒ぐプライバシーってじゃあ結局なんなのか、人間は何から何を本能的に守ろうとしているのか、守ることが果たしてできるのかについては、自分の中で言語化できていなかったのですが、

このテーマで何冊か本を読んだ中で、この本との出会いが、私の頭の中のプライバシー像をすっきりさせるきっかけとなりました。

「プライバシー」の哲学



・「プライバシー」という言葉の成り立ち
 (特に「プライベート」との違い)
・プライバシー権の法理
・プライバシーをめぐる政治・宗教的対立
を紐解きながら、プライバシーがインフレ―ションを起こし、敏感になりすぎているのでは?ということを主張する著者。

メディアといえばせいぜい新聞しかなかった時代にプライバシーという概念は生まれ、

ラジオやテレビといった電波により情報が1:nに広がるメディアが生まれたことでプライバシーのあり方が変容し、

インターネットによりプライバシー情報が劣化しないデジタルデータとしてn:nに無差別交換される状態にまで急激に「進歩」してしまった今。

確かに著者が主張するように、私たちは、メディアの進歩とプライバシーとのバランスの取り方に戸惑うばかりで、まだうまく付き合うことができているとは言えない状態。

なぜ戸惑うのか。
それは、私たちがプライバシーというものは守りきれるものなんだという幻想を抱いているから。

人間が自己意識を持つ存在であり、「他者」たちとの間で緊張感を保ちながら生きている以上、緊張度を可能な限り低く設定した「プライバシー空間」はあらゆる個人にとって何らかの形で必要だろう。ただし、それはあくまでも、緊張感が支配する「パブリックな空間」とのメリハリをつけるという意味での必要性であって、あらゆる面で外部との情報を遮断した完全な「プライバシー」というのはあり得ないし、そいう理想化されたものを求めるべきでもないだろう。
さまざまな影響を与え合っている以上、そこには何らかの利害関係があるはずであり、「何をやろうと他人に感知させない権利」という意味での絶対的な「プライバシー権」は、社会を構成する「人間」である限り何人も主張し得ない。
「私」が「プライバシー権」を主張すれば、「私」以外の誰かの行動の自由、特に「表現の自由」や「知る権利」などに制約を掛けることになる。逆に、公的領域における「指定されたプライバシー」を勝手に“放棄”すれば、他人が見たくないものを見せて不快にさせることもある。
結局のところ「プライバシー」というのは、社会の中で密接な繋がりをもちながら生きている人間たちが、お互いに干渉しすぎて疲れないですむようにするゆとりを持つために生み出した技法であって、それ自体に絶対的な価値がある訳ではないという当たり前のことを各人が再認識すべき、というあまり面白くない話にしかならないようである。

こういった地に足についた議論を読むと、一見捉えどころのないプライバシー権もああなんだそんなことかと理解できますし、事業者の立場としては困らされてばかりの個人情報保護法も恐るに足りず、という気分になれるから不思議です。

では、絶対的なプライバシーなどあり得ないとして、公とプライバシーのバランスの取り方について、私たちはどう考え、どう振る舞っていけばいいのか。

著者はそれに直接的に答えてはいないものの、そのことを分かった上でこんなヒントを与えてくれています。

社会の情報化に伴って、「プライバシー」感覚の重心が伝統的な意味での「家」から、情報ネットワークの中でのセキュリティ装置のようなものへと相対的にシフトしていることは間違いない。しかしそのことが、個人ベースでの「プライバシー」保護のニーズが急激に高まっていること、あるいはその逆に、各人が自ら進んで「プライバシー」を放棄して、「ビッグブラザー」の支配下に入りつつあるということのいずれかを単純に意味するわけではない。「私」のアイデンティティ形成の場が変化しているのと連動して「プライバシー」の場も変化しているのである。

この“アイデンティティ形成の場の変化にあわせてプライバシーの場も変化させていく”ということが、これからの新しいプライバシーの考え方であるという点については、またの機会に。